Novel



曇り夜空
Kodii

夜、住宅街にあるその繁華街はネオンなどの明かりを受けていて、建物に囲まれたその空間は遠くから見ると、まるで光が溝か何かに溜まっているかの様に見えた。道端の空缶でさえもスポットライトを浴びたかのようにくっきりと浮かび上がっていた。あらゆる方向から光が射すこの通りで「影」というものを作ろうとしたならば、それは一苦労であろう。そんな輝かしい、しかしどこにでもある、通りを会社帰りらしき八人の男が列をなして歩いてきた。列の最後尾の亮輔はこれから飲むというのに同僚と二人で日本とアメリカの企業戦略の違いについて真剣に話していた。そして亮輔は恒例の居酒屋の看板を見つけると、「ごめん」と言って小走りで近くの煙草の自販まで駆けていった。彼は急いで煙草を買うと列に加わり、みんなに続いて居酒屋の中へと入っていった。これは彼の習慣となっている。 彼の勤めている部署は月に一度、日曜日に加え土曜日も休みになるのでその前日の金曜日は決まって部署内で飲みに行くことになっていた。亮輔は入社以来欠かさずに出席しているが部署内ではそれほど珍しいことではない。ほとんどの者はこの席を仕事として捉えていた。亮輔もその一人だが彼にとってこれをうまくこなすのはなかなか難しいものがあった。今回も彼は会議に参加しているかのように方程式化された会話の一語一句に神経を尖らせていた。例えば彼の上司が未婚者達に向かって、「君らで一番もてるのは誰なんだい」なんて言うと、彼は「顔と性格を変えれば僕なんじゃないかな」と回答してみるのだった。すると他の者は笑いながら酒をすするのだ。これで彼はしばらくの間つまみをつつきながらのんびり飲んでいればいいのである。しかし今回彼は油断していたのか誤って「死刑制度には賛成」という発言を漏らして、他の者の酒を不味くしてしまった。彼の上司なんかはここぞとばかりに長年の間に築き上げられ更には必要以上に磨き込まれた哲学を教え込もうとするのだった。たまらず亮輔は、入店十二本目の煙草に火をつけ、入店五杯目の日本酒を飲み干し、入店四度目のトイレに立った。このままいけばトライアスロンの新記録が生まれるだろう。

                                    

翌日、午前十一時頃目覚めた亮輔は蒲団に仰向けのままメガネをかけ、首を反らせて後ろの壁に掛かっている時計を確認するとメガネを外し、次にうつ伏せになって顔をごしごしと枕にこすりつけた。蒲団のわきの窓から差し込む日光を彼は背中で感じた。しばらく日光を吸収していた彼は突然起き上がりメガネを手に持ったままトイレへと向かった。そして酒を飲んだ後のあの透明な小便をしているとき、ふいに部屋のベルが鳴った。一瞬動きが止まった彼は小便が終わると流さずにゆっくりと蒲団に戻ろうとした。するとドアの向こうで「産経新聞です」と言う声が聞こえた。彼は昼間の間ほとんど部屋に居ないのでここのところ新聞料金を払えないでいた。ベルがもう一度鳴ると同時に彼は一万円を持って部屋のドアを開けた。彼は「はい」と言った後トランクスしか穿いていないことに気づいた。相手の男はそれでも平然として、「集金に参りました。先月の分も未払いということなので合わせて八千三百十九円になります」と言いながら集金表を見ている。亮輔は一万円を渡した。「よろしかったらどうぞ」そう言って男はおつりや領収書と一緒に何かの招待券を二枚亮輔に渡した。部屋に入った亮輔は玄関の暗がりのなか、もらった招待券を手に取った。券には「エゴン・シーレ展」と書いてあった。彼の傾倒する画家の一人だ。その下に場所は長野県と書いてあった。それを見た途端、彼は券を投げ捨てた。彼は東京都に住んでいた。彼は蒲団に戻ると再び横になった。そして眠りに落ちた彼は午後一時頃、本日二度目の目覚めを迎えた。彼は天井の蛍光灯を眺めながら「いくか」と独り言を言うとシャワーを浴び、軽い食事を摂ったあと招待券と財布とCDを持って部屋を出た。

彼の予定とは裏腹に高速道路は渋滞していた。彼は招待券を手に取って閉館時間を調べると、土曜日は六時までと書いてあった。まだ八王子の手前で時計は三時半を指していた。彼は思わずハンドルに倒れ掛かった。一方、車の列はまるでひとごとのように平然と続いていた。もし車が馬のように足踏みをしたり鼻を鳴らしたりと苛立ちを見せたのならば、彼はどんなに気が晴れたことだろう。彼は苛立ちを押さえようとカーステレオの音量を上げた。高速道路をやっとのことで下りた亮輔だったがここからエゴン・シーレ展が開催されている美術館までの道のりは確かではない。山道を美術館へと向かう際、持ってきたCDはすでに聞き終わり、ラジオは全チャンネルでノイズ特集をしていたので彼はカーステレオを切った。彼の車の中はひっそりとしていた。あまりにも静かなので亮輔は得意の鼻歌も忘れて、地図を助手席に乗せ信号で止まっては地図を確認するという作業を黙々と繰り返した。美術館の広大な駐車場に車を留めた時には彼の顔を固まりきっていた。時計は五時五十五分、もうすぐ六時を指そうとしていた。彼は取り乱しそうな感情を抑えるように一つ一つの行動をゆっくり丁寧に行った。その挙動はある種書道や茶道に近いものがあった。車を降りるとちょうど夕暮れ前の貧相な白い空が彼を迎えた。風はなかった。駐車場には車が十台も留まっていなかった。美術館の入口は、中庭を百メートル程歩いたところにあった。中庭には芝生が敷き詰められ所々に彫刻が並べられていた。すれ違う者もなく彼は入口の自動ドアの前まで歩いた。自動ドアは開かなかった。更にその奥には「本日は閉館いたしました」という小さな看板が置かれていた。彼は向きを変えて明かりの煌々としているチケット売場に向かった。窓口にはカーテンが掛けられていたが時々人影が掛かるのが見える。彼は売場の脇にある鉄のドアを叩いた。バンバンという大きな音がした。内から警備員がドアを引いた。彼は既に帽子を取り、手には食べかけの煎餅が持たれていた。

「もう入れないですよね」そう亮輔が尋ねると

「モグモグ…すいませんね…ゴクッ。もう閉館時間過ぎておりますので」

「そうですか。いやもしかしたらと思って」と亮輔は言いながら、中を覗くと奥の机で女チケット販売員が二人話しているのが見えた。

「では申し訳ございません」と言って、警備員はドアを閉めようとしたので亮輔は食い下がった。「あの明日は何時に開くのですか」と既に彼が知っていることを聞いた。

「九時になります」そうきっぱり言うと彼は亮輔の顔を見つめた。亮輔は更に、

「どうですかね、エゴン・シーレは」と言うと、警備員は「えーと、どういった意味でしょうか」と聞いてきたので亮輔は一瞬ためらった後「観た感想のことです」と言った。警備員は軽く首をかしげた後、「興味深いと思いますよ」「そうですか」「ええ」、と会話はそれで終わり、ドアを閉められた。閉まる間際、亮輔は奥の女チケット販売員の一人と目が合った。彼はしばらくドアを睨んでいた。しかし中から会話が聞こえてきたので彼はその場を離れて自分の車へ戻った。そしてシートを倒して横になり窓から見える空を眺めた。空はだんだんと赤みを帯びてきてなかなかいい景色だ。しかし一分も経たないうちに彼は車を発進させて、来た道を戻らずに先に進んだ。車は東京から離れて山奥へと潜り込んでいった。

午後七時頃、暗い山道を亮輔は信号で止まった。車内は未だにどんよりしている。止まっている間亮輔が前方を見ると道路の両側に二つの電光看板があるのが見えた。道路の左側の看板には黄色の地に黒で「たぬき親父」と書いてあり、10m奥にある右側の看板には白地に赤い文字で「TENGU」とアルファベットで書いてある。車が一台も来なかったせいもあり亮輔は信号が青になったこともすっかり忘れて、それらの看板に見入っていた。そして信号は赤になり二度目の青が来たとき、亮輔は車をゆっくりと走らせ手前にある「たぬき親父」の看板の前で止まった。店の窓からは黄色いエプロンをしたアルバイトらしい若い女がいすに座っているのが見える。店内をよく見ると客は一人もいなかった。しかもあの若い女の様子からするとどうやら今さっきの話ではないようだ。亮輔は車を次の「TENGU」の看板前まで走らせた。そして前のように様子を窺がおうとしたが看板のある建物に電灯はなく、入口には明かりの消えた「オダ・クリーニング」の看板が掛かっていた。亮輔は辺りを見回した。すると、その建物の左側は背の高い杉林が続いているのだが、その林と建物の間に車一台程の砂利道があり奥に例の赤い「TENGU」の文字が暗闇で浮かんでいた。店自体はまだ見えない。ほとんどの人は、また普段の亮輔なら他の店を探すだろう。しかし彼は普段の精神状態ではなかった。亮輔はゆっくりとハンドルを切るとその砂利道に入っていった。入るとちょうどクリーニング店である建物の裏の駐車場をはさんで、その店が建っていた。和風造りのその建物は一階建てで、右手には店の人が住んでいるらしい二階建ての建物が並んでいた。駐車場には四台ほど車が止まっていて、端では小型バスが茂みに埋まっていた。しばらく亮輔は車内から観察していた。一応窓からは明かりが漏れ、話し声も僅かに聞こえた。亮輔は駐車場に車を止め店の入口まで来た。ドアの上の看板には「天狗」と漢字で普通に書いてある。店先で入ろうか迷っていると、ドアは自動的にガラガラと開いた。足元を見ると自動ドアのマットの端を爪先で踏んでしまっていた。もうあとには引けない。ふいに奥から「いらっしゃい」という男の声が聞こえて来た。店はまず玄関から通路がまっすぐ厨房まで伸びていて、その左右には一段高くなった座敷がありそれぞれにテーブルが四つずつ置いてある。トイレは通路を座敷から厨房へ行く途中の僅かな空間の左右にそれぞれ紳士用婦人用があった。ところで声の主は、玄関から見て右側にある座敷の一番奥にあるテーブルから腰をあげると裸足で亮輔の方へやってきた。そのテーブルには他に二十代半ばの男女が二人ずついた。「どうぞいらっしゃい、さあどうぞ上がって」と店の主人は言って座敷から下りずに亮輔を四人が着いているテーブルの直ぐ隣のテーブルに案内した。亮輔は言われるまま靴を脱いでテーブルに着き、店内を一周見回した。その四人組み以外に客は居なかった。主人はちょうど両方のテーブルの間に座ろうとした。その際に彼は両方のテーブルに手を着きながら「お母ちゃん」と叫んだ。座ると亮輔に向かい「彼女はどうしたの?」と真面目な顔をして聞いてきた。もちろん酔っ払いの真剣な顔のことである。亮輔は「途中で天狗にさらわれちゃって、もしかしたらここに居るんじゃないかと思って」と言った。すると四人組み中のソバージュを後ろで一つに結んでいる女が嘲笑ともとれる程のばか笑いをした。他の者はそんな彼女を茶化した。よく見ると五人全員天狗のような赤い顔をしていた。ここはどうも居酒屋らしい。主人は笑顔で「まあ今夜は彼女のことは忘れて」と言ってからまた「お母ちゃん」と叫んだ。厨房から男の妻がお通しのぜんまいを持って出てきた。亮輔はメニューから炒飯と焼き鳥と煮魚を頼んだ。妻が「お酒の方はいかがなさいますか」と聞いてきた。亮輔は「運転があるから」と頭を軽く下げた。すると主人は「大丈夫だよ。酔ったらちゃんとうちで休む所あるから。そういえば君たちも車だったよね」と主人はひざを立てながら四人の方へ向きを変えた。すると若いグループの男が「そうですよ」と応え、「あれ?エリちゃんは車で来たの?」とばか笑いした女の隣に座っている女に聞いた。男は妙にレンズの四角い眼鏡を掛けていたが意外に似合っている。聞かれた女の方は箸を置いて、噛んでいた豆腐を一気に飲込んでから、

「それが、わたしトモの車でここまで来たんだけど、さっきトモがその車乗って帰っちゃってえ。絶対迎えに来るって言ってたんだけど、本当に来るか解かんないから、もし来なかったらタクシーで帰ろうかなと思ってるんだけど」と前髪を整えるようにゆっくり横に撫で付けながら言った。「この辺なら俺達送るけど、なあ」ともう一人の色黒の細い男が彼女に向けていた視線を眼鏡の男に移した。眼鏡の男は「おう」と応えた。恩は着せないということを相手に解からせるように彼は幾らか無愛想に言った。

「15分あれば着くと思うんだけど」と彼女が言うと満場一致で送るということに決定した。店の主人は、「さっき言ったけど、仮眠する部屋はあるから、そこでゆっくり休んでまた朝帰ればいいじゃない。タダだしさ。うち結構多いのよ、そういう人」と言い亮輔に向かい「君は明日早いの?」と聞いた。「いいえ、特に予定ないです」と亮輔が応えると主人は「じゃあ今夜は飲んでいきなよ、もちろん、あの、無理にとは言わないよそれは」と言い終わると、前にテーブルの下に置いたのか覗き込むようにして煙草を探した。亮輔は、

「じゃあ、ビール頂きます。これでもう今日は帰れませんよ」

「大丈夫だって。じゃ今晩はこの子達と一緒にゆっくりしていきなよ。あとみんなに先に言っておくけど男女は部屋別々だよ、一緒の場合は別料金頂くことにしてるから、はははあ」と主人は口を大きく開けて笑い、煙草を口に運んで火を点けた。その場に居た亮輔たちも釣られて笑い出した。そして主人は満足顔で煙草を持ったままトイレに立った。初めて四人全員の顔が一辺に見た亮輔は眼鏡の男と目が合い「ここはよく来るの」と聞くと彼は「いや、初めてだよ」と言った。それからそれぞれの自己紹介が始まった。亮輔に一番近い位置に座っていてソバージュのかかった髪を後ろで一つに結んでいる彼女が彩子である。よくしゃべる彼女の声はおまけに大きく、初めは普通に話していた亮輔もしばらく経つと釣られて普段よりも大きな高い声で話すようになっていた。彩子の隣に座っていて前髪を始終気にしているのが恵利子である。黒髪でチノパンという格好とは対照的に左右の耳には合計七つのピアスがぶら下がっていた。しかし何故か全体的な印象は至って地味であった。彩子の向かいが眼鏡の似合う男、栄一郎でその隣つまり恵利子の向かいが夏男、拓朗である。男はどちらもTシャツに短パンという格好をしていた。彼らは最初二組別々で飲んでいた。栄一郎、彩子、拓朗の三人で一組。そして朋子、恵利子の二人でもう一組という具合である。しかし店の主人の働きで一緒に飲むようになり、そのあと恵利子の友達の朋子が急用で帰り今の四人になったのだ。栄一郎と彩子は付き合っているようだ。自己紹介の途中で店の主人が両手に焼酎とビールを持ち、後ろから妻が料理を運んできた。亮輔は箸を持って。主人も栄一郎と彩子の間に座り、二人はちょうどテーブルをはさんで向き合う形になった。しかし主人の視線は亮輔までなかなか届かず、彩子と恵利子のところで留まってしまう。亮輔は亮輔で人が話しているときは運ばれたチーズ揚げとなんこつを酒も飲まずに次々と口に運んでいった。

時間が経つに連れて話のグループが二つに分かれていった。一つは主人と彩子と栄一郎で、主人と彩子が主に話していて栄一郎が聞いているという感じだ。もう一つは拓朗と恵利子と亮輔の三人で、亮輔は今日の不幸を語っていた。

「でも何が一番腹立ったって、高速で前の車の馬鹿がこっちずっと見てたってことなんだよ!こっちが前見てると奴の目がバックミラーに映って目が合うんだよ。俺も初めは偶然かなって思って違うとこ見るようにしてさ、いや、だって向こうも偶然なのにこっちが睨んでたら相手に悪いし気分悪がるだろ。それでしばらく地図見たりステレオ弄ってたりしてまたちらっと相手のバックミラー見たらまだ俺の顔見てんだよ偉そうに、つまんねーやらせ番組見てるみたいにさ。渋滞中そいつがずっと前にいるんだよ」拓朗は「わかるよ」と笑いながら相づち打った。

「もうその阿呆のおかげで休暇が台無しになったよ。そんな小っちゃいことで向きになんなよって思うかも知れないけど、なんか駄目なんだよね」そう言うと亮輔は箸の上に乗った少量の炒飯を飲込んだ。ずっと真剣に聞いていた恵利子は、

「そんなの気にしなければいいのよ、うん。だって向こうが別に何かしてきたわけじゃないんでしょ」

「まあな、今思えばね。毎回そうは思うんだけどたまにいるんだよ、たまに。まあこっちが悪いのかもしれないけど」そう亮輔が言うと拓朗も、「しょうがないっしょ。バイトの後輩でもむかつく奴はいるよ。悪い奴じゃないんだけど、なんか調子いいって感じだな」と言った。恵利子は、

「例えば」

「例えば?例えばね。…俺居酒屋で働いてるんだけど居酒屋って週末がやたら混むじゃん、それで時給は平日と一緒だからだいたい皆交代でやってんだけど彼は一度入ったきり用事がありますって言って入らないんだよ。まあ本当にそうなのかも知れないけど、他の人は交代で入ってる訳よ。それなのに僕は忙しいのでって言うんだよ。しかも彼はそのままじゃ肩身が狭くなるって解かってるからそこら辺はうまくやってるんだよ。俺等とかに楽しそうに話し掛けたりつまんねー洒落に爆笑したりいろいろだよ。だからこっちも逆に言いにくいんだよ。全部計算済みなのかも知れないけど別に悪気がないかも知れないんだよ。働く時はちゃんと働くし」

「それは結構難しいね」

「そう、別に義務じゃないしね。でも止めよう、こういう話、なんかどろどろしちゃうね」と拓朗は言うとクイッと背筋を正して、隣の会話から話題を得ようと主人の方へ体を乗り出させた。主人はさっきから彩子に向かって露骨に「女性はすばらしいね」なんていいながら酒を飲んでいる。拓朗はそんな主人の絡み方が面白いらしくニタニタ笑いながらそっちの会話に加わった。恵利子は鏡を取り出しテーブルに乗せて、覗き込みながら赤い頬に両手の平を当て少ししてはひっくり返して甲の方を当てるというのを繰り返し始めた。

十時ごろ、主人以外みんなの目がうつろになりだしだ。店内は貸し切り状態なので彼らが静かになると、店自体が物悲しい雰囲気に包まれる。調理場では物音ひとつしない。しかし主人はそんなことを気にとめる様子もない。

「もうギブアップか?」と彼が言うと、栄一郎は「はあ、ちょっと」と言うと、目の前のビールを一口飲んでまたもとに戻した。主人は、

「そうか、それじゃ酔い覚ましてきなさいよ。この店出ると左側に道があるから、それをずっと行くときれいに星が見れるところがあるから、そこでちょっと風に当たってきなさいよ」

「いいですね。じゃ行こうか」と栄一郎は彩子に言うと彼女はうなずいた。主人を残して一同は立ち上がり余分な荷物を端に置くと靴を履いた。しかし拓朗は仰向けに寝そべっていた。栄一郎が「どうするんだ」と聞くと彼は目を閉じたまま「俺はいい」と言った。黄色いTシャツには箸を落としたのか茶色い醤油の線が一本出来ていた。「じゃあすぐ戻るから」と栄一郎が言うと、彼らは玄関にあった懐中電灯を持って出ていった。

玄関を出た彼らは左、つまり二階建ての家のある方に向かった。両方の建物のあいだには林の奥に続く道があった。彼らは懐中電灯を照らしながら進んだ。二階建ての家の方を見ると、一階の窓からは明かりが漏れていてカーテン越しに女性がテレビを見ているのがわかる。そのシルエットは台所に居た主人の妻のもののようだ。亮輔は恵利子と話しながら歩いていった。後ろでは彩子と栄一郎が話している。亮輔は恵利子に言った。

「そういえばトモちゃん来るんじゃないの」

「えっ」

「いや、戻って来るかもしれないんでしょ」

「ああ、トモ?多分来ないよ」と、恵利子は人事のように言った。

「…ふーん、そうなんだ」

「だって彼氏のとこ行ってるから」と恵利子が言うと亮輔は少ししてから、

「それじゃ飲んでいる時にいきなり呼び出されたんだ」

「そうそう、トモ彼氏のことすごい愛してるもん」

「でも酒飲んでたんでしょ。危なくないか」

「まだそんなに飲んでなかったから。まあ酔っててもトモなら会いに行ってるかもね、あの子そういうところあるから」と恵利子は言ってから、「でもあの子はいい子だよ、うん。高校の時に二人で学校から帰る途中にぼろい駐車場があったのよ、もう雑草とか生えまくりでさ。車もほとんどとまってないのよ。その駐車場の端に小猫が四匹くらいいたのよ」

「捨て猫だ」

「いや、捨て猫っていうより近くの野良猫が産み捨てたって感じかな。そしたらトモが可愛いって言ってそっちの方行ったのよ。とりあえず私もついていったらその仔猫のうち一匹が病気だったのよ。お腹のところの毛なんかとっくに抜け落ちて地肌が赤茶色っぽくなってたの。可哀相だなって思ってたらトモが突然抱き上げて病院連れて行くっていうのよ」ここまで言うと反応を確かめるように亮輔の方を見た。亮輔は黙って続きを待っていた。彼女は更に、

「臭いも本当にすごくて生きてるのが不思議なくらい。それを素手で抱き上げて腕の上に乗せるの、信じられる?」

「すごいね」

「すごいよ、しかも近くに動物病院あるかなんて知らないから駅まで言って聞いたらこの周りにはありませんって言われて結局なんとか電車乗せてもらって病院まで連れていったのよ。あのときは尊敬しちゃったな、もし私一人だったらあの子はそういう運命なんだって割り切っちゃうかもなあ。冷たいのかな」

「そんなことないと思うよ。人にはさ色々いいところがある訳けど、それって人によってそれぞれ違うんだと思うんだよね。だから恵利子ちゃんにもトモちゃんに無いいい所ってのがあるんだよ」と亮輔は言うとしばらく沈黙が流れた。後ろではかすかに話し声が聞こえる。亮輔の位置から栄一郎達はもう懐中電灯の光しか見えない。

「恵利子ちゃんも、優しいと思うよ。それだけトモちゃんのこと大切に思ってるんなら」と亮輔は付け加えた。その言い方は一見感情が伴っていないかのようだったが彼は本意であるということを彼女の目をしっかり見ることで伝えようとした。彼女は首をかしげたまま黙っていた。そのまま二人は黙って歩き続けると突然林が途切れ広い草原が現われた。そこは夜空からの光を浴び、草が光を反射することで草原全体がうっすらと見渡せられるようになっていた。暗い林を歩いてきた者にとっては眩しいくらいだったかも知れない。星はあいにく雲で見ることが出来なかったがその雲は月の光と都会の灯を受けて空一面に広がっていているのが解かり、それは地球全体を包んでいるようかのだった。二人が空を見つめていると後ろから栄一郎達がやってきた。二人は何か話していたが、草原が見え亮輔たちに追いつくと二人は会話を一時中断した。

「おお、すげえきれいじゃん!」栄一郎が叫んだ。その一言に亮輔も、

「すごいよ。おっちゃんの言ってた星は見えないけど、こんな風景見たことないぞ」と叫んだ。そして亮輔が振り返り栄一郎と目が合うと栄一郎は軽く口に笑みを浮かべた後突然走り出した。それを見た亮輔は吹き出してしまったがすぐに追いつこうとして続いて走った。彼は顔を夜の空に向け、見上げながら走った。その姿勢はまるで飛ぼうとでもしているかのようだ。疲れた亮輔は立ち止まって周りを確認すると栄一郎とはずいぶん離れ彼の方は草原の真ん中当たりで倒れていた。亮輔は彼の方へ走った。亮輔が来ると栄一郎は顔を彼の方に向けて真顔で「大地を感じる」と言った。亮輔が「大丈夫?」と訊くと彼は、

「地球は生きてるんだ!俺達をずっと見守っていたんだ!こうしてると感じるんだ。ああ溶けそうだ。体が吸収されそうだあ!」と亮輔を見ながら言った。亮輔がとまどい何かを言おうとしているのを彼はじっと見つめていたが亮輔がしゃべり出す前に吹き出してしまった。彼は、「どうしたんだよ。お前も感じるだろ」と笑いながら言った。亮輔は、

「それよりお前は本当に感じたのかよ」

「生き物として当然だろ」

「なんだよそれ」

彩子が向こうからジョギングでもするようにゆっくり走ってきていた。それを見た亮輔が恵利子を探すと彼女は初めにいた場所から動いてなかった。彩子が来ると亮輔は、「恵利子ちゃんは?」と聞いた。彼女は驚いたように、「あれ?来てない?」と言って振り返った。すかさず栄一郎が「おいおい置いてきちゃかわいそうだろ」と言った。亮輔は「ちょっと見て来る」と言って彼女の方へ駆けていった。

  恵利子は地面にべったり座りこんで空を見上げていた。亮輔が近づいても彼女は依然ぼんやりと見上げている。亮輔は「いきなり走り出してごめん」と言うと彼女は座ったまま彼を見ると「ううん別に気にしてないよ、ただびっくりしちゃって。もしかして狂ったのかと思ってちょっと恐かった」と言った。「ごめんびっくりした?…別に狂ってないよ。…だいじょうぶだいじょうぶ」そう彼は言い終わると大人しくなってしまった。

「ねえ戻ろうよ。せっかく来たのに星出てないんじゃもうここにいる意味ないでしょ。それよりまた飲まない?わたしお酒強いのよ。飲み会とか行くとみんなつぶれてるのにわたし一人で飲んでるってことけっこうあるのよ」彼女は早く戻りたいのだった。亮輔は彼女の提案に一瞬の困惑を見せたがぎりぎりのところでかろうじて言葉を返した。

「へえそうなんだ。じゃ顔とかには出るけど実はまだまだいけるっていうタイプ?」

「そう。さっきもなんだけど耳とかはすぐに赤くなるんだけどね。だから人からは弱いでしょうって言われるんだけど内心ではもうあんたわかってないよって」

「誤解されるんだ」

「そう!わたしってけっこう誤解されること多いのよね。もうちゃんと見なさいって感じよ。このまえの飲み会でも隣りでずっと話してたのにいきなり宝塚好きでしょって言われてなんでそうなるのって感じよほんとに。しかも前にも同じようなこと言われたのよ」

「そういうのよくあるよ。でも別に本人は適当に言ってるんだから気にする必要ないよ」彼は話しながらも彼女の隣りには座ろうとしなかった。顔には笑みを浮かべ所々で相づちを打っていたが決して自分から会話を弾ませようとはしなかった。彼は気を紛らわすかのように栄一郎たちの方へ振り向いたが恵利子はなおも自分の会話を続けた。

「しかもわたし男運ないのよ、なんか最悪じゃない?」亮輔は訊かれたので振り返り、相手の目を見てから一呼吸おいて「そんなことないよ。世の中には男が山のようにいるんだよ?恵利子ちゃんなら、そうだな八号目、いや山頂にいる奴をモノにするぐらい訳ないって。…運なんて関係ないよ」と言った。考え込んだ彼女が視線を亮輔から草原へ移すのが解かるとは静かなため息をついた。そして彼女が少し考えているすきに彼は、

「でもこの空きれいだね」と言って大袈裟に鼻で深呼吸をして空を見上げた。しかしちょうど目の前には林があり、黒い木々がざわざわ音を立てながら空を覆っていた。亮輔はそんなホラー映画のオープニングのような景色を彼女が話し出すまでのわずかの間、取りつかれたように見ていた。彼はこのような窮地に立たせられたとき、考えうる最善策はいつもお蔵入りとなり結局実現されるのは五番目六番目のほとんどどうでもいい、策とは名ばかりの代物というのが常だった。

「まあ男運なんて言葉は勝手に誰かがつくったんだろうね」彼女は草原を見つめたままつぶやいた。彼は彼女を見たが何も言わなかった。彼女は亮輔を見上げると、

「戻ろうか」と言って立ち上がった。

「どうする?あいつらまだここに居そうだよ」

「いいよ放っておこう、邪魔したら悪いし。懐中電灯貸して」

亮輔が懐中電灯を渡すと彼女はそれを持って歩き出した。亮輔はその場で「先行ってるぞ」と叫んだ。向こうで栄一郎は手を振った。亮輔はそれを見てから煙草に火を点け彼女の後を追った。

恵利子はぐんぐんと林へと進み、更には懐中電灯を自分の足元にしか照らさないので亮輔はつまずかないよう足元を見ながら大股で歩かなければならなかった。恵利子は気が付かないのかのんびりとした口調で、

「拓朗君どうしてるかな」

「起きて飲んでいるか部屋で先に寝ているかしてるんじゃない、まあ部屋っていってもどんな所か解かんないけど。それとライトもうちょいこっちに寄せてくれる?」

「あっごめん」「うん、サンキュ」「でもあの店って変だよね、仮眠部屋があるなんてさあ。あれって来る客数が少ないから出来るだけたくさん飲んでもらって、それで一人当たりの儲けを増すためにあるんじゃない」

「どうなんだろう、うーん、あのおっさん自体よく解からないからな」亮輔はそう言いながらもだに見えない足元を見ようと目を凝らしていた。

「そうね、決め付けちゃかわいそうかもね。あの彩子ちゃん見るときの目は商売人っていうよりどっちかっていうと単なるすけべ親父って感じだもん。おじさんにしてみればタダでスナックに行って女の子と話しているようなもんだよね。そう考えるとあのおじさんも単なるすけべ親父じゃなくて、…もしかし」

「ちょっといい、あのさ悪いんだけどライトもうちょっとこっちにも当ててくれない、足元が見えなくてさっきからいつ転んでもおかしくない状況なんだよ、ははっ、ごめんね」

「そーお?ちゃんと当てているわよ」恵利子はしつこい亮輔に対して今までに無いほどの強い調子で応えた。亮輔はいくらか顔に笑みを浮かばせ、

「いや、今は当たっているけど話しているうちにだんだん光がそっちの方に行っちゃうんだよ、はははっ」

「………………………………………………………………………」恵利子は立ち止まり次いで亮輔も立ち止まった。彼はここでさっさと謝り話題を何か別の手頃な、例えば「栄一郎と彩子の仲について」に変えるという選択もあったが、それにはこれまでにあまりに様々な問題を内にため込みすぎていた。しかもいくらか酔いが残っていたのだろう、彼はなおも、

「別に責めている訳じゃなくて、なんて言うのかな。ただ俺はさっきまでの状態だと、ほら、下が見えないしおまけに足元が砂利道でないから、エリちゃんの足元が見える範囲でこっちにも、もうちょっとライトを照らしてって言ってるだけなんだよ」

「なんか感じ悪くない?」

「何が?」

「何がって何が?。私だってあんたが懐中電灯持っていたときに転びそうになったこと位ありますよ」

いつもの亮輔ならこの言葉で参っていただろう。

「……それならそのときにそう言えばいいだろうが。そうしたら俺はちゃんと照らすよ」

「……………………」

「エリちゃんは照らす位置が近すぎるんだよ。自分の爪先ばっかり照らしているから結果的に視野が狭くなって、それで前が見えないもんだから余計にまた自分の足元を明るくしようとしていて、結局一人で、俺なんかそっちのけで歩いているんだよ。基本的には普段歩く時と同じなんだから、もうちょっと先の方、っていうか道全体的を照らすようにすればどういう道かっていうのが解かって、二人とも歩けるんだよ。エリちゃんの方法は一人なら、まあいいけど、ライトの当たる範囲が狭いから二人いるとどっちかが、っていうよりエリちゃん以外の人が辛いんだよ」亮輔は長々しゃべっているうちに気分が高まり、後半は恵利子そっちのけで自分の演説に精進し我をいくらか忘れていた。

「何言っているのか全然解からないんですけど。もっと解かり易く説明してください」

「だから足元を照らすんじゃなくて道照らせって言ってるんだよ」

「じゃあ、あんたがやれよ!」

恵利子は懐中電灯を亮輔の腹に投げつけた。亮輔はに取ろうとしたがそれより先に懐中電灯は砂利道に落ちた。幸いに壊れなかったが亮輔は拾う訳にはいかなかった。彼は懐中電灯を林の中へ蹴り飛ばした。辺りは光を突然奪い取られた。普通に酔いましに来た人は真っ先に懐中電灯を手中に収めようとするほどの黒さだ。しかし亮輔は輪郭だけわずかに見える恵利子に向かって怒鳴りつけた。

「お前みたいな奴がいるから秩序が乱れてくるんだよ」

「は?何言っているの、頭おかしいんじゃない」

「うるせーお前みたいな自分を棚に上げている奴は消えていいって言ってるんだよ」

「だからあんたみたいな気持ち悪い人間に言われたくないわよ」

「どう気持ち悪いんだよ、説明しろよ。気持ち悪いって言えば片付くのか。それほどお前の言葉は絶対なのかよ。それほどお前の価値観は正しいのかよ。お前は人をけなせるほどの事をしてきたのかよ。もしお前が本当に内面まで清く正しいなら俺も黙ってお前のいう事聞いてやるよ。でもお前みたいな奴は一言だって言えないはずだぞ。お前は人がいいとか、社会性があるとかいう奴がいい奴だと思っているだろう。だからそのために一所懸命努力してきた自分も立派な人間だって言いたいんだろう。そしてそれが出来ない奴は駄目な人間だって言いたいんだろう。大間違いだぞ。お前はただ良い環境で育って良い教育を受けて良い遺伝子を受け継いでいるに過ぎないんだよ。お前がいくら今まで自分で頑張ったって言ってもそれはすべてお前以外のもののおかげなんだよ。それらのひとつでも欠けていたら良くも悪くも今のお前はいないんだよ。いいかお前も含めて人をけなせる人間は誰もいないんだよ。つまりお前がいくら頑張ったところで一生人を馬鹿にしたり、けだもの扱いすることは出来ないんだよ」

亮輔はそう言い終わると林の奥に見える微かな白みに向かって走った。道は大きく右に反れているので途中木に当たったり不意な傾斜に足を取られたりしたがそんなことは彼にとってはなことだった。彼の手足は震えていて顔は恐怖劇画の主人公のように目を見開き、その宣伝ポスターに張り付いたかのような日常離れした表情を闇に晒していた。

  亮輔は暗い林を抜けて店の玄関まで辿り着いた。中から新たに来た客達の話し声が漏れていた。彼は玄関に背を向け、ゆっくりと歩き出したがいくらか進むと立ち止まった。そしてしばらく地面の三十センチ上を合わない視点のままぼんやりと眺めていたが、突然さっと顔を上げると店の右角端のを何かに脅えるような目つきでじっと見つめた。というのは彼が今さっき林から走ってきた道は店の右角端に植えられた、まだも付けていない山茶花により遮られていたのだ。十秒ほど彼はそれを偵察していたが、もし恵利子が現れて目が合ったときの状況を想像するとそれ以上は耐え難く、視線を逸らすと店の玄関に向かった。彼がドアを開けようとすると、またドアは勝手に開いた。彼は自分たちの居たテーブルを眩しそうに見るとそこでは知らない男達が飲んでいた。拓朗の黄色いTシャツも見当たらない。主人の小さな体を探すと客の中にれていた。彼は通路を厨房の方へと進むと厨房のの奥から主人の妻が出てきた。

「あらお帰りなさい、どうだった?」

「ええ、きれいでした、みんな、喜んでいて」

「よかったねえ、ねぼすけの子は先に部屋に連れてったよ。あのままひっくり返られたら困るしね。他の子はどうしたの?」

「まだ、三人は向こうにいます、そのうち戻るって言っていました。先に部屋行っていいですか?」

「いいよお、疲れただろ、部屋はね…」

「ありがとうございます。その前に会計の方、先に済ませちゃいます、僕がとりあえずまとめて出しますので」

「そうかい?じゃあちょっと待っていて頂だい」

そういうと彼女は一旦厨房に戻った。

「えーと、全部で一万四千七百三十二円だね」

「じゃあこれで」

「二万円ね、じゃあちょっと待って」

彼女はおつりを取りに行った。亮輔は横に掛かっている鏡を見た。鏡の上に付いている蛍光灯の明かりが赤く膨れた顔を痛々しく浮き上がらせていた。まるでナメクジレストランの主人のような顔だ。彼は鏡から目を逸らすと押し殺したような重いため息をいた。おつりを受け取り部屋の場所を聞くと笑顔の主人を横目に玄関を出ていった。彼は亮輔が入ってきたことも出ていったことも気づかなかった。

  部屋は隣りの家の玄関を上がってすぐの所にあった。ドアに「男」と書かれた紺色のが掛かっていた。中で誰かテレビを観ている気配がする。女の部屋は見当たらなかった。亮輔は場所だけ確認するとまた玄関を出ていった。車に乗ると彼はシートを倒して横になった。

「くそったれが」

彼はぼそっと口に出したが、それは彼の予想に反して生々しく、また自分の声ではないような白々しさを含んでいた。彼はもう一度確かめるように、

「最悪」と口に出した。そしてさらに、

「最悪だよ」と叫んだ。

「俺は何がしたいんだ。何しにきたんだ」

  彼は何しに来たのだろう。恵利子に説教しにきたのか。閑静な美術館に行き芸術に触れようとしたのか。いや、彼はただ日常から離れたかったのだ。くだらない生活から、望んでもいない生活から、自分ではいられない生活から。彼は自分の生活、人生を愛せなかった。彼の趣味といったらは音楽鑑賞、読書、映画鑑賞ぐらいだ。なぜならそれらの持つ世界の方が刺激的で興味をそそるから。彼の時間、情熱はほとんどそれらのために注がれた。彼はそれらを愛し、彼自身はそれらを味わうための感覚器に過ぎないのだ。彼は自分が好きではなかった、それらとは程遠い自分とは。だが本当に自分を愛せる者はどれほど居るのだろうか。いや結構居るのかもしれない。しかし彼は違った。

彼はしばらく自分の声が残した沈黙に耳を傾けていたが、上体を起こすと外に出た。そして辺りを見回した。変わりは無い。しかしいざ自分の車から外に出ると、誰かに見られているような気になった。彼は通りに出た。すると向かいの「たぬき親父」がまだ営業していた。彼は歩いて通りの向かいから中を覗くと誰も居なかった。店の札を読むとまだ営業時間内だと解かった。彼はフナムシが岩陰に身を隠すように中に入った。ドアにくくり付けられている鐘の音と共に店に入ると彼は店内を見回した。中は意外に広く、壁と天井は薄いクリーム色一色で、床はダークレッドのタイル張りで所々に彩度の低い赤、緑、黄などの色が散りばめられていた。一階の壁には四枚の写真と二枚の編み物が飾られていた。そこに足の細いテーブルやイスが余裕を持って置かれていた。一階の天井の三分の一は取り払わられ、店は右手前にある階段から行ける二階を見上げられる造りになっていた。突き当たりのキッチンとフロアの間は壁ではなくカウンターになっていた。キッチンは二人が入ったらもう一杯になってしまいそうだ。しかし店内で一番気を引くのは何と言っても最大限に拡張されたその空間だ。亮輔が思わず深呼吸をしたくらいだ。吹き抜けになっている二階から中年の女が覗いてきた。「いらっしゃいませ」更に、

「いらっしゃいませ」と彼女の後ろから、行きに覗いた時に居た若い女が出てきた。彼女は階段を下りると亮輔を席に案内した後、水とメニューを持ってきた。

「すいませんけどこの時間はこれらの料理しか作っていません」彼女はメニューのうち三品を指差しながら言った。

「すいません、この三つですか」

「はい、すいません。その三つです」

写真が載っていないので、亮輔はしばらくの間キョロキョロとメニューボードに書かれた三つの単語を見比べていた。また幾分高めに設定されている価格も彼をいくらか悩ませた。「ハンバーグ」「ビーフシチュー」「日替わりスパゲッティー」……。

「御飯とかってありますか」

「ええ、もちろんです」

「じゃあ、ビーフシチューお願いします」

「御飯の方はいかがなさいますか」

「トーストはありますか」

「はい。トーストになさいますか」

「お願いします」

「はい、では今作りますので少々お持ち下さい」彼女はメニューを持ってキッチンの方へ向かった。亮輔はちらっと階段の方を見たが中年の女を下りてくる気配は無い。そしてキッチンの方を見ると若い女は料理を作りはじめていた。亮輔は煙草を取り出したが灰皿が無いことに気づくと諦めてテーブルに置いた。ふと気づくと音楽が流れていなかった。普通は有線かラジオが流れているものだ。亮輔は壁に掛けられている写真などを静けさの中眺めていた。するとようやく階段から中年の女が下りてきた。

「どうぞごゆっくり。あら、随分お酒飲んでますこと」

亮輔はとっさに顔を触ると、自分が酔っているということに気づいた。しかし彼は、

「いいえ、飲んでいる訳ではないのです。こういう顔なのですよ。世に言う天狗をご存知ですか」

「はい?」

「ここでビーフシチューを食べましたらまた働きに出なくてはならないのですよ。出稼ぎみたいなものです。いや、天狗も楽ではない。」

「まあ、よく酔ってますわ。うちの料理でも食べて酔いを冷ますといいわ」

「ここのビーフシチューは私の大好物なのです。あのアルバイトの娘さんも腕がいい」

「あの子はうちの娘ですのよ」

「なるほど。どうりで美味しいわけだ」

「ありがとうございます」

亮輔は満足する言葉が思い浮かばなくなると急に落着かなくなり、

「すいません、お手洗いの方はどちらになりますか」と言ってその場をごまかした。

「そのキッチンの右手になります」とドアを指差しながら言った。亮輔が行こうとすると彼女は、「天狗も意外と面倒ですね」と言った。彼はただ「はい」とだけ応えた。

彼は便所に入る個室の扉を開けて便器に座り込んだ。そして目を閉じると眠るように動かなくなった。キッチンでは母が娘の料理を見守っている。彼は個室から出ると手を洗い外に出ようとした。が、立ち止まった。そして振り返ると鏡の中の自分を見つめた。彼は顎を引いたり首を左右に振ったりして、鏡に映る顔を確認している。目を見開いたり笑ってみせたりと色々試していたが彼の目は鏡の中の道化師の動きを静かに追っていた。ついには動かなくなった顔を彼はまたしばらく見ていた、まるで目の前の人物が自分であることを忘れたかのように。彼は目を閉じて大きく伸びをした。そして勢い良くドアを開けると中年の女を探して言った、

「すいません、ちょっと急用を思い出してちゃって、もうすぐに行かなきゃならないんでまた今度食べに来ます」

「もうすぐにできますけど」と中年の女は言った。

「今度絶対にきます、それとお金は払いますので」と彼はお金を中年の女に渡すと、テーブルに煙草を置き忘れたまま店を出た。彼はそのまま元の飲み屋まで走った。彼は店の中を見回したがすぐに出ると隣りの家の中に入った。手前にある男性客用の部屋を通り過ぎ廊下を奥に進んだ。部屋はいくつかあったがドアには何も表示するものがなかった。彼は戻って男性客用の部屋のドアを開けた。中には拓朗がいた。亮輔は言った。

「あのさ、恵利ちゃん知らない」

「知らねーよ。彼女、お前の顔見たくないって言ってたぞ」拓朗は不機嫌そうに言った。

「わかってる。反省したんだ。俺が悪かったんだよ」亮輔は拓朗を見つめた。拓朗は何も言わないで亮輔をただ見ていた。

「本当に知らない?今しか言う機会がないんだよ。ただ謝りたいんだ」

「…………廊下を突き当たって左が女部屋だよ、今いるか知らないけど」

「わかった。……ありがとう」

亮輔は廊下に出てその部屋のドアを叩いた。中から「はい」という返事が返ってきた。

「亮輔だけど」

「なに?」

「さっきはごめん」

「…………………………………」

「あんなことで怒ってごめん。……君がライトを照らしてくれていたのに。……何であんな事言ったのかって後悔してるんだ。だから一言謝りたかったんだ」

「………………………………………………………………」

「直接謝りたいんだ。だからドアを開けて欲しいんだよ」

彼はドアが開くのを待った。しかしドアは開かない。

「つまり、まだ怒ってるんだ」

彼がそう言うとドアが開いた。恵利子は右手でドアの取っ手を掴んだまま左手で髪をかき上げた。

「もういいよ」

そう言いながら彼女は下がりかけた前髪を手で押さえていた。

「ありがとう」

亮輔は晴れた顔でそう言った。そして彼女に笑いかけた。

「外行かない」

亮輔は何の羞恥や緊張も感じなかった。

「星出てたらいいね」

「話したいことが一杯あるんだ」